シベリア出兵とは(世界からの不信とソ連の禍根だけを残した戦争)

シベリア出兵とは、第一次世界大戦で連合国に名を連ねた日本がソビエト連邦のシベリアに出兵させた軍隊を戦争終結後もそのままシベリアに駐屯させて国際的な非難を招いた事件のことを言います。

1914年(大正3年)にドイツやオーストリアなどの国々とフランスやイギリス、ロシアなどの連合国の間で始められた第一次世界大戦は欧州を主戦場としていましたので日本には直接的な関係はありませんでしたが、日英同盟の関係から日本も連合国に名を連ねて参戦し、ドイツが権益を持っていた青島や南洋諸島に軍隊を進めました。

そうしてアジアにも広がっていった第一次世界大戦はその4年後の1918年(大正7年)まで続きますが、1917年(大正6年)の11月にロシアでレーニンによる社会主義革命が起きると、レーニンはドイツとの間で単独講和を結び、大戦から離脱してしまいます。

これで困ったのがチェコスロヴァキアです。チェコスロヴァキアはオーストリアからの独立を求めてロシア軍に編入されて戦っていましたが、ソ連がドイツと講和を結んだことで約6万人のチェコスロヴァキア軍がソ連領内で孤立してしまったからです。

国際社会からの侵略国家であるとの不信とソ連からの禍根だけを残したシベリア出兵

そのため連合国はこのソ連領内で孤立したチェコスロヴァキア軍を救出するために、シベリア鉄道を利用してウラジオストックまで移送しヨーロッパに送ることを計画します。

そして、その計画を円滑に進めるためにはソ連に部隊を送らなければならないとしてアメリカやイギリス、フランスなどの連合国は各国一個大隊(※大隊は1000人程度)程度の兵力を派兵することになりました。

もちろんその要請は日本にもありましたので日本も派兵するわけですが、日本は内地から一個師団、満州から二個師団(一個師団は約1万人程度)を送り込みます。

ではなぜ、日本はそのように過大な兵力を送ったのでしょうか。この点について作家の保坂正康氏は著書の「昭和陸軍の研究」の中で次の3つの理由があったと指摘しています。

・極東のソ連地方政権に抗する白軍を盛り立てて赤化を防ぐ必要があったこと
・シベリアからの日本への脅威をできるだけ抑えたかったこと
・シベリアを拠点に満州方面への進出路を確保したかったこと

※出典:保坂正康著「昭和陸軍の研究」朝日新聞社 上巻37頁を基に作成

明治以降の日本はロシアの南下政策が国防上最大の懸案事項であって、そのために日露戦争があったわけですし、ロシアの革命は君主制(天皇制)を国是とする日本の国体とは相いれません。

当時の日本政府としてはチェコスロヴァキア軍の救出などは二の次で、ソ連との間で国防上の優位性を確立させるためにシベリアに過大な兵力を送っていたわけです。

そうして送りこまれた日本軍は、チェコスロヴァキア軍の武装解除を進めるソ連軍やドイツからの要請に応じて解放されたドイツ軍捕虜の部隊と交戦を続けますが、1918年(大正7年)に休戦協定が結ばれて戦争が終結に向かうと連合国はシベリアに送った兵隊を次々と撤収させていきます。

ところが、日本には今述べたように国防上の別の狙いがありましたから、撤兵どころか満州からさらに師団を送り込みます。もちろん、こうした日本の姿勢はソ連だけではなくシベリアから撤兵したアメリカなどの連合国にも侵略の疑念を生じさせました。

特にソ連は日露戦争で旅順の港や南樺太を日本に奪われたという恨みがありましたから、それも相まってこのシベリアにおける軍事侵攻は後々まで禍根を残してしまったのです。

そしてそうした疑念や禍根が、対米戦争前の対米交渉の不振や1945年8月9日のソ連による対日参戦などに少なからぬ影響を与えてしまうわけですが、勿論当時の日本政府はそんなことには気づきません。

結局日本は、10億円もの戦費を投入し十個師団の兵力をシベリアに送って軍事行動を遂行させましたが、日本が侵略国家であるという不要な疑念を世界に抱かせたうえ、ソ連に不必要な禍根を残しただけで何も得ることなく1922年(大正11年)に撤兵を開始します。

このように、国防上何も得ることがなく、外交上も何もメリットがなかったばかりか、世界における日本の信用を損ない、侵略国家であるとの疑惑を植え付けて、ソ連には不必要な恨みを残しただけで多大な戦費と人命を失ったのが、いわゆる「シベリア出兵」だったということになります。

参考文献
・保坂正康著「昭和陸軍の研究」上巻 朝日新聞社刊 35~37頁