大寺隆の日記は南京事件をどう記録したか

大寺隆は南京攻略戦に派遣された第十三師団の別動隊、山田支隊の歩兵第六十五連隊第七中隊に配属された上等兵で、南京攻略戦の際に現地で記録した日記が公開されています。

大寺隆の所属した山田支隊は南京北東に位置する幕府山付近で2万人に及ぶ軍民を虐殺しているため、大寺隆の日記も幕府山での虐殺の実態を知るうえで貴重な資料となっています。

では、大寺隆の日記は南京攻略戦における日本軍の虐殺や略奪(掠奪)など暴虐行為を具体的にどう記録したのか確認してみましょう。

大寺隆の日記は南京事件をどう記録したか

(1)昭和12年12月14日「ヒル二羽、ヤギ二匹、ロバ一頭徴発」

大寺隆日記の昭和12年14日には略奪(掠奪)の記述が見られます。

我々は五名で遥の部落に徴発に行き、アヒル二羽、ヤギ二匹、ロバ一頭徴発して来る。それから料理を始め夕食が八時だ。この部落は高資鎮。

出典:大寺隆日記※昭和12年12月14日の部分:偕行社『決定版南京戦史資料集 資料集Ⅱ』348頁上段∼下段

この点、ここでは「アヒル二羽、ヤギ二匹、ロバ一頭」を「徴発」としていますから略奪(掠奪)ではないではないかと思う人もいるかもしれませんが、「徴発」は糧秣を現地で民間から調達することを言いますので、その「徴発」した食糧や家畜の対価となる現金か軍票を払うなり、家人が逃げて無人の家であればどの財産を「徴発」したか所有者にわかるように明記したうえで司令部に代金を取りに来るよう書置きを残すなど、正式な手続きをとることが必須です。

しかし、次のような証言があるように、そうした正規の手続きで「徴発」した兵士はほとんど皆無だったのが実情です。

元兵士たちの回想によれば、中隊、あるいは大隊から「食糧徴発のため金が支給された記憶はまったくない」という。中隊の戦時編成は二百名、大隊は機関銃、歩兵砲を含め千名近い。飢餓状態となった部隊が小さな村落に入るや、たちまちパニックが発生した。

出典:下里正樹『隠された聯隊史「20i」下級兵士の見た南京事件の真相』青木書店77頁

然るに後日〔中国人の〕所有者が代金の請求に持参したものを見ればその記入が甚だ出鱈目である。例へば〇〇部隊先鋒隊長加藤清正とか退却部隊長蒋介石と書いて其品種数量も箱入丸斥とか樽詰少量と云ふものや全く何も記入してないもの、甚だしいものは単に馬鹿野郎と書いたものもある。全く熱意も誠意もない。……徴発した者の話しでは乃公〔自分のこと〕は石川五右衛門と書いて風呂釜大一個と書いて置いたが経理部の奴どうした事だろうかと面白半分の自慢話をして居る有様である。

出典:吉田裕『天皇の軍隊と南京事件』青木書店 82頁※第九師団経理部付将校だった渡辺卯七の証言

しかも、南京攻略戦で日本軍による掠奪(略奪)があったことは、中国人や外国人の記録だけでなく日本側の将兵の日記や証言にも数えきれないほど残されていますから、南京攻略戦で「徴発」と称する掠奪(略奪)が横行した証拠は圧倒的です。

つまり、兵士の日記には「徴発」と書いてあっても、そのほぼすべてが略奪(掠奪)だったわけです。

ところで、この大寺隆日記では「アヒル二羽、ヤギ二匹、ロバ一頭」を「徴発(実際は略奪(掠奪))」しており、「それから料理を始め」の記述からはその家畜を殺して食べたことが伺えますが、アヒルもヤギもロバも現地住民が大切にしている家畜です。

ヤギは乳を搾ったり、ロバは収穫した農産物の運搬など、食用以外の目的で飼われていたものと想像されますが、その生活の基盤となっていた家畜を日本兵が持ち去れば途端に生活は成り立たなくなってしまったでしょう。

日本軍に家畜を奪われた市民が次の日から困窮を極めたことは容易にわかりますが、この大寺隆に限らず日本兵の日記にはそうした中国市民への同情は微塵も感じられません。ただ自分たちの腹を満たすことだけを考えて略奪(掠奪)を繰り返していたわけです。

こうした掠奪(掠奪)は上海から南京に至る途上で延々と繰り返されており、日本軍が通り過ぎた後はイナゴの群れが通り過ぎた後のように何も残っていないような状態だったはずです。

大寺隆日記のこの部分は、南京に向かう日本兵が沿道で略奪(掠奪)を繰り返していたこと、またその略奪(掠奪)によって多くの中国市民の生活を破壊したことを裏付ける記述と言えるのではないでしょうか。

(2)昭和12年12月15日「こゝに着く少し前で敗残兵を一人殺す」

大寺隆日記の昭和12年12月15日には敗残兵の殺害に関する記述が見られます。

〔中略〕今日の宿営地、龍潭鎮に着いたのが五時頃だった。こゝに着く少し前で敗残兵を一人殺す。〔以下略〕

出典:大寺隆日記※昭和12年12月15日の部分:偕行社『決定版南京戦史資料集 資料集Ⅱ』348頁下段

この点、ここでは「敗残兵を一人殺す」としか書かれておらず、その殺害が戦闘によることも考えられますので、この記述をもって断定的にそれが捕虜の殺害だとは言えません。

しかし、仮に戦闘中の殺害であれば「一人殺す」とは書かないはずです。なぜなら、この15日の前後でも戦闘はあったはずなのに、大寺隆日記にはこの前後に「○人殺す」などと記述された部分がないからです。

この日の前後で「○人殺す」の記述がないということは、常識的に考えてこの15日の「一人殺す」の部分は戦闘によるものではなく戦闘外で捕縛した敗残兵を殺害したものに間違いないはずです。おそらくこの「一人殺す」と記述された部分は、捕らえた敗残兵を射殺するか斬殺(又は銃剣で刺殺)したのでしょう。

しかし敗残兵をいったん捕縛すればそれは「捕虜」ですから、ハーグ陸戦法規に従って人道的な配慮を取らねばならず処刑することはできませんし、仮にその捕らえた敗残兵に何らかの非違行為があったとしても、これを処刑するには軍法会議を経なければなりませんから軍法会議に掛けることなく処刑したこの事例は当時の国際法規に違反する「不法殺害」に他なりません(※この点の詳細は→南京事件における捕虜(敗残兵)の処刑が「虐殺」となる理由)。

したがって、大寺隆日記のこの部分の記述は、敗残兵の虐殺があったことを裏付ける記録の一つと言えるでしょう。

(3)昭和12年12月16日「今晩は相当に御馳走があった」

大寺隆日記は12月16日も略奪(掠奪)の記述が続きます。

米、豆腐、小豆、砂糖、ブタ、芋カマ、野菜等、部隊も又いろいろ徴発してきた。分隊では豚、野菜、米、鶏、芋等を徴発して来たので、今晩は相当に御馳走があった。

出典:大寺隆日記※昭和12年12月16日の部分:偕行社『決定版南京戦史資料集 資料集Ⅱ』349頁上段

この日もいろいろと「徴発」していますが、前述したようにこれもすべて実際には略奪(掠奪)です。

ここでは「今晩は相当に御馳走があった」とありますが、その略奪(掠奪)してきた食糧や家畜は現地住民の生活を支えるための大切な資産です。日本兵がその略奪(掠奪)した物資で「御馳走」に喜んでいた一方で、略奪(掠奪)された中国市民は飢えに苦しんでいたはずですが、そうした中国市民に対する悔恨の情はここでも微塵も見られません。

こうした掠奪(略奪)はこの大寺隆が所属した山田支隊だけでなく、南京攻略戦に参加したすべての部隊で行われたことですが、当時の日本兵が夜盗や窃盗団と何ら変わらないならず者集団だったことが良くわかる記述と言えます。

(4)昭和12年12月18日「揚子江岸に二ヶ所の山の様に重なって居るそうだ」

大寺隆日記の昭和12年12月18日は、幕府山での大規模虐殺に関する記述が見られます。

〔中略〕午前中に大隊本部に行き後藤大隊長の訓辞、帰へって中隊長矢本中尉殿の訓辞ありて各部隊に別れる。午后は皆捕リョ兵片付に行ったが俺は指揮班の為行かず。昨夜までに殺した捕リョは約二万、揚子江岸に二ヶ所の山の様に重なって居るそうだ。七時だが未だ片付け隊は帰へって来ない。

出典:大寺隆日記※昭和12年12月18日の部分:偕行社『決定版南京戦史資料集 資料集Ⅱ』349頁下段

「昨夜までに殺した捕リョは約二万、揚子江岸に二ヶ所の山の様に重なって居るそうだ」とある部分は、揚子江の江岸まで捕虜を連行して殺戮したことを伺わせる記述です。

幕府山付近での大虐殺に関しては、他の兵士や証言などから揚子江の江岸に連行した捕虜を半円形の陣形で取り囲んで機関銃で皆殺しにしたことがわかっていて、水平に射撃される機関銃の銃弾から逃れようとした中国兵捕虜が撃たれて折り重なった死体に這い上がって人柱のようになり、その人柱が崩れては這いあがり崩れては這い上がりして人の山が出来たと言われていますが、「二ヶ所の山の様に重なって居るそうだ」の記述からは、そうした光景が想起されます。

この点、敗残兵であれば処刑も許されるのではないかと考える人がいるかもしれませんが、ハーグ陸戦法規は捕虜に人道的な配慮をすることを求めていますし、仮にその捕縛した捕虜に何らかの非違行為があったとしても、それを処刑するためには軍法会議にかけて罪状を認定することが必要ですから、軍法会議に掛けることなく処刑したこの幕府山での大規模な殺戮は間違いなく当時の国際法規に違反する戦争犯罪です(※この点の詳細は→南京事件における捕虜(敗残兵)の処刑が「虐殺」となる理由)。

大寺隆日記のこの部分は、幕府山での大虐殺の事実を裏付ける記録の一つと言えるでしょう。

(5)昭和12年12月19日「今日捕リョ死骸片付けに行き」

大寺隆日記は昭和12年12月19日も虐殺に関する記述が続きます。

〔中略〕今日捕リョ死骸片付けに行き松川の菊池さんに会ふ。〔以下略〕

出典:大寺隆日記※昭和12年12月16日の部分:偕行社『決定版南京戦史資料集 資料集Ⅱ』350頁上段

「捕リョ死骸片付け」としていますので、おそらく前述したように揚子江の江岸で虐殺した捕虜の後始末をしに行ったのでしょう。

幕府山での大規模虐殺では、機関銃で皆殺しにした後、生き残る者がいないように死体の山を兵士が銃剣で突き刺して歩いたうえ燃料を掛けて火をつけて死んだふりをした捕虜が動くのを見つけて銃剣で刺して回ったそうですが、そうして殺した死体は数日掛けて揚子江に流したりしたと言われています。

大寺隆日記のこの部分もそうした死体の後始末が実際に行われたことを裏付ける記録と言えるのではないでしょうか。