歩兵第36連隊第12中隊の陣中日誌は南京事件をどう記録したか

歩兵第36連隊第12中隊は南京攻略戦に派遣された上海派遣軍の第9師団第18旅団に編成された部隊で、南京攻略戦の際に記録した陣中日誌が公開されています。

陣中日誌は部隊の公式記録となるので戦争法規違反に類する虐殺や略奪(掠奪)、放火や暴行(殺人・傷害含む)など暴虐行為の具体的な記録はありませんが、兵士の非違行為を推認させる記述がいくつか見られますので、南京攻略戦における日本兵の軍規風紀の乱れがどのように生じていたかを知るうえで貴重な資料となっています。

では、歩兵第三十六連隊第十二中隊の陣中日誌は南京攻略戦における日本兵の暴虐行為について具体的にどのように記録しているのか、確認してみましょう。

歩兵第三十六連隊第十二中隊の陣中日誌は南京事件をどう記録したか

(1)昭和12年12月8日「給養ハ携帯セルモノ及ビ当地ニ於テ徴発セルモノヲ使用スベシ」

歩兵第36連隊第12中隊の陣中日誌には、昭和12年12月8日の箇所で同日に出された第三大隊命令について次のように記録しています。

〔中略〕歩三六Ⅲ作命第五一号
第三大隊命令
十二月八日午後九時
於 東部上方鎮
一∼九、〔中略〕
十、給養ハ携帯セルモノ及ビ当地ニ於テ徴発セルモノヲ使用スベシ
十一、〔以下略〕

出典:歩兵第36連隊第12中隊陣中日誌※昭和12年12月8日の部分:偕行社『決定版南京戦史資料集 資料集Ⅱ』379頁上段

ここでは「給養ハ携帯セルモノ及ビ当地ニ於テ徴発セルモノヲ使用スベシ」としていますので、当初から糧秣の補給は予定されておらず、毎日の食料については現地住民からの「徴発」で賄うことが、軍の命令として出されていたことがわかります。

つまり、たまたま糧秣の補給が遅れたからとか事故があって兵站に支障が出たからというわけではなくて、南京攻略戦という作戦自体が最初から兵站を無視したものだったわけです。

この点、「徴発」は糧秣を現地で民間から調達することを言いますので、その「徴発」した食糧や家畜の対価となる現金か軍票を払うなり、家人が逃げて無人の家であればどの財産を「徴発」したか所有者にわかるように明記したうえで司令部に代金を取りに来るよう書置きを残すなど、正式な手続きをとったものであれば問題はありません。

それは文字どおり「徴発」であって、戦時国際法の問題は惹起されないからです。

しかし、次のような証言があるように、上海戦から南京攻略戦に至る過程でそうした正規の手続きで「徴発」した兵士はほとんど皆無だったのが実情です。

元兵士たちの回想によれば、中隊、あるいは大隊から「食糧徴発のため金が支給された記憶はまったくない」という。中隊の戦時編成は二百名、大隊は機関銃、歩兵砲を含め千名近い。飢餓状態となった部隊が小さな村落に入るや、たちまちパニックが発生した。

出典:下里正樹『隠された聯隊史「20i」下級兵士の見た南京事件の真相』青木書店77頁

然るに後日〔中国人の〕所有者が代金の請求に持参したものを見ればその記入が甚だ出鱈目である。例へば〇〇部隊先鋒隊長加藤清正とか退却部隊長蒋介石と書いて其品種数量も箱入丸斥とか樽詰少量と云ふものや全く何も記入してないもの、甚だしいものは単に馬鹿野郎と書いたものもある。全く熱意も誠意もない。……徴発した者の話しでは乃公〔自分のこと〕は石川五右衛門と書いて風呂釜大一個と書いて置いたが経理部の奴どうした事だろうかと面白半分の自慢話をして居る有様である。

出典:吉田裕『天皇の軍隊と南京事件』青木書店 82頁※第九師団経理部付将校だった渡辺卯七の証言

しかも、上海戦から南京攻略戦で日本軍による掠奪(略奪)があったことは、中国人や外国人の記録だけでなく日本側の将兵の日記や証言にも数えきれないほど残されていますから、南京攻略戦で「徴発」と称する掠奪(略奪)が横行した証拠は圧倒的です。

つまり、陣中日誌にある「徴発」の実態は、略奪(掠奪)だったわけですが、そうした「徴発」と称する略奪(掠奪)は上海戦から南京攻略戦に至る道中で延々と繰り返されてきましたので、この大隊命令を出した歩兵第三十六連隊は、第十二中隊で略奪(掠奪)が行われることを知らなかったわけではありません。

第三十六連隊は、「糧秣は徴発で賄え」という命令を、略奪(掠奪)が行われるのを十分認識したうえで出していたのですから略奪(掠奪)を黙認していたわけです。

この歩兵第三十六連隊の「給養は…徴発せるものを使用すべし」とする命令は、歩兵第三十六連隊が兵士の略奪(掠奪)を黙認していたこと、また略奪(掠奪)が行われることを知りながら「徴発」の命令を出すことで兵士の略奪(掠奪)による中国市民の受ける惨禍を拡大させたことを裏付ける記録の一つと言えるのではないでしょうか。

(2)昭和12年12月14日「軍規風紀上些少ナリトモ師団ヨリ注意ヲ受クル事ナキ様」

歩兵第36連隊第12中隊陣中日誌の昭和12年12月14日には、軍規風紀に関する次のような記述があります。

〔中略〕聯隊長注意
武勲赫々タル功績ヲ建テ全軍ニ名声ヲ博シタル軍旗ヲ有スル当聯隊ニシテ、軍規風紀上些少ナリトモ師団ヨリ注意ヲ受クル事ナキ様、各隊長ニ於テ注意指導スベシ〔以下略〕

出典:歩兵第36連隊第12中隊陣中日誌※昭和12年12月8日の部分:偕行社『決定版南京戦史資料集 資料集Ⅱ』383頁上段

ここでは歩兵第36連隊の連隊長から「軍規風紀上些少ナリトモ師団ヨリ注意ヲ受クル事ナキ様」との注意が出されていますので、軍規風紀の乱れがあったことがわかります。

この点、南京陥落後における「軍規風紀」の問題としては、兵士の日記や南京に残留した外国人の証言、あるいは日本兵による暴虐行為の被害に遭った中国人の証言から、略奪(掠奪)や強姦、放火や暴行(殺人・傷害含む)だったことがわかっていますので、日本兵によるそうした暴虐行為が頻発していたことが伺えます。

したがって、歩兵第36連隊第12中隊の陣中日誌のこの部分は、陥落後の南京で日本兵による略奪(掠奪)や強姦、放火や暴行(殺人・傷害含む)などの非違行為が横行していたことを裏付ける記録の一つと言えるでしょう。