松井石根の覚書(支那事変日誌)は南京事件をどう記録したか

松井石根は南京攻略戦に中支那方面軍の総司令官として関わった陸軍大将で、昭和12年8月の上海戦から11月以降の南京攻略戦に至る過程でつけていた日記(戦陣日記)とは別に、昭和21年3月にA級戦犯として巣鴨拘置所に入所するまでに記した覚書(支那事変日誌)が公開されています。

松井石根の戦陣日記の内容については『松井石根の戦陣日記は南京事件をどう記録したか』のページで確認しましたが、戦後に書かれた覚書(支那事変日誌)にも南京攻略戦で行われた日本兵による暴虐行為に触れた箇所がいくつか見られますので南京事件を知るうえで貴重な資料となっています。

では、その覚書(支那事変日誌)は南京事件についてどのように記録しているのでしょうか。確認してみましょう。

松井石根が戦後に書いた覚書(支那事変日誌)は南京事件をどう記録したか

(1)「自然其一般良民ニ累ヲ及ホスモノ尠カラサリシヲ認ム」

松井石根の支那事変日誌には、日本軍が敗残兵と誤認して一般市民を処刑したことを裏付ける次のような記述が見られます。

尚敗走セル支那兵カ其武装ヲ棄テ、所謂「便衣隊」トナリ、執拗ナル抵抗ヲ試ムルモノ尠カラサリシ為メ、我軍ノ之二対スル軍民ノ別ヲ明カニスルコト難ク、自然其一般良民ニ累ヲ及ホスモノ尠カラサリシヲ認ム。

出典:松井石根の覚書(支那事変日誌):偕行社『決定版南京戦史資料集 資料集Ⅱ』185頁上段

陥落後の南京城内では多数の敗残兵が武器を投げ捨て市民の平服に着替えて市民が避難する安全区(難民区)に逃げ込みましたが、日本軍はそうして避難民に紛れ込んだ敗残兵を捕らえる際に杜撰な”兵民分離(兵士と市民を分けること)”を行い、多数の一般市民が兵士と間違われて処刑されたことがわかっています(※日本軍の兵民分離が極めて杜撰だったことは『水谷荘日記は南京事件をどう記録したか』や『増田六助手記は南京事件をどう記録したか』『井家又一日記は南京事件をどう記録したか』、『佐々木到一私記は南京事件をどう記録したか』などの記事で紹介した将兵の日記や『南京事件に関連する日本軍の命令/指令/通牒/訓示等』のページで紹介した日本軍の指令等の記録で裏付けられています)。

もちろん、ハーグ陸戦法規は捕虜に人道的な配慮をとることを要請していますので武装解除して投降した敗残兵を処刑すること自体が国際法違反なのですが、杜撰な兵民分離で一般市民を処刑してしまうことは明らかな虐殺です(この点の詳細は→『南京事件おける捕虜の処刑が「虐殺」となる理由』)。

この点、歴史修正主義者の中には、そうした一般市民が処刑された事実を否定する人が少なくありませんが、この松井石根の支那事変日誌は「一般良民ニ累ヲ及ホスモノ尠カラサリシヲ認ム」と記述していますので、そうした一般市民の処刑があったことは司令官の松井石根も認める事実であったことがこの記述から裏付けられます。

したがって、この支那事変日誌のこの部分の記述は、陥落後の南京城内で多数の一般市民が兵士と間違われて日本軍に処刑されたことを裏付ける資料の一つといってよいでしょう。

なお、念のため付言しておきますが、たとえ「便衣隊(便衣兵)」であっても軍法会議を省略して処刑することはできませんので、「便衣隊(便衣兵)」だったから処刑はやむを得なかったという趣旨のこの支那事変日誌の記述は、当時の国際法を全く理解できていない点で失当です。

そもそも「便衣兵」は武器を持って戦うゲリラ兵のことを指し、武器を捨てて一般市民に紛れ込んだ兵は「便衣兵」とは呼びませんので、一般市民に紛れ込んだ敗残兵を「便衣隊」と記述したこの松井の支那事変日誌は「便衣兵(便衣隊)」の言葉の使い方を間違っています。

松井は当時の国際法を全く理解できていなかった言うほかないのではないでしょうか。

また、松井は「執拗ナル抵抗ヲ試ムルモノ尠カラサリシ為メ」と、敗残兵の抵抗が激しかった如く記述していますが、そもそも「武装ヲ棄テ」た敗残兵が「執拗ナル抵抗」をできるはずがありませんのでこの部分は文章自体が矛盾していますし、陥落後の南京城内では中国兵からの抵抗がほとんどなかったうえ、城外で散発的な抵抗をつづけた敗残兵も日本軍が投降を呼びかければ簡単に武装解除して投降したことが日本兵の日記などでも裏付けられていますから(※例えば→『国崎支隊の戦闘詳報は南京事件をどう記録したか』『井家又一日記は南京事件をどう記録したか』『前田吉彦日記は南京事件をどう記録したか』)、「執拗ナル抵抗ヲ試ムルモノ尠カラサリシ為メ」などと到底正当化できるものではありません。

支那事変日誌のこの部分は、「敗残兵からの執拗な抵抗があったから殺したのだ」と敗残兵の処刑を正当化しようとしているのでしょうが、当時の実情を全く理解できていない点で司令官として失当です。

こうした松井の認識が捕虜の処刑を正当化させて南京攻略戦における大虐殺を生んだのですから、東京裁判で戦犯として裁かれたのは当然と言えます。

(2)「予始メ各部隊長ノ監督到ラサリシ責ヲ免ル能ハス」

支那事変日誌には、日本兵による暴虐行為の原因と、その責任の所在に関する次のような記述が見られます。

我軍ノ南京入城ニ当リ幾多我軍ノ暴行奪掠事件ヲ惹起シ、皇軍ノ威徳ヲ傷クルコト尠少ナラサルニ至レルヤ。是思フニ

一、上海上陸以来ノ悪戦苦闘カ著ク我将兵ノ敵愾心ヲ強烈ナラシメタルコト。

ニ、急劇迅速ナル追撃戦ニ当リ、我軍ノ給養其他ニ於ケル補給ノ不完全ナリシコト。

等ニ起因スルモ亦予始メ各部隊長ノ監督到ラサリシ責ヲ免ル能ハス。

出典:松井石根の覚書(支那事変日誌):偕行社『決定版南京戦史資料集 資料集Ⅱ』185頁上段

ここで松井は、南京において日本兵の暴行(強姦も含む)と略奪行為が繰り返された原因について

  • 上海戦から続いた中国軍からの激しい戦闘で敵愾心が生まれたこと(報復感情)
  • 補給の準備が不十分だったこと(兵站不備)

の2つを挙げていますが、その責任について「予始メ各部隊長ノ監督到ラサリシ責ヲ免ル能ハス」としていますので、自分も含めた部隊長以上の将校について南京事件の責任を自覚していたことがわかります。

歴史修正主義者の中には東京裁判で裁かれた松井石根の無罪を主張する者もいますが、松井石根自身がその責任を認めていたわけですから、歴史修正主義者の主張が如何に的外れな主張であるかがわかります。

(3)「厳重ナル調査ヲ行ヒ、努メテ之ヲ賠償返還セシムルノ方ヲ講シタリ」

支那事変日誌には、松井が南京で日本兵によって引き起こされた略奪(掠奪)行為について賠償を行ったとする次のような記述が見られます。

我軍ノ南京入城直後ニ於ケル奪掠行為ニ対シテハ特ニ厳重ナル調査ヲ行ヒ、努メテ之ヲ賠償返還セシムルノ方ヲ講シタリ。特ニ英米仏其他列国官民ニ対スル賠償ニ関シテハ我外交官憲ヲ介シテ努メテ有誼的ニ本件ノ善処ヲ図レルモ、戦場内ニアル列国人ノ財産生命カ自然惨禍ノ累ヲ受ケタルコトハ已ムナキ次第ト云ハサルヲ得ス。

出典:松井石根の覚書(支那事変日誌):偕行社『決定版南京戦史資料集 資料集Ⅱ』185∼186頁

しかし、南京で日本兵が行った略奪(掠奪)等の暴虐事件について「厳重ナル調査ヲ行ヒ」「賠償返還セシ」めたのは、あくまでも米国大使館など欧米列強の資産に限られます。

「特ニ英米仏其他列国官民ニ対スル賠償ニ関シテハ」などという記述は、その「特ニ」に入らない欧米列強以外の損害に対する調査や賠償も行ったかのようにも読めますが、南京市民に対する膨大な数の略奪(掠奪)や暴行(強姦含む)、放火や殺人などについては全く調査も賠償も行っていませんから、この部分は事実誤認にも程があると言うしかありません。

松井の認識では欧米列強に与えた損害さえ賠償すれば足りると考えていたのでしょうか。

また、後段部分では「戦場内ニアル列国人ノ財産生命カ自然惨禍ノ累ヲ受ケタルコトハ已ムナキ次第」とありますが、南京で日本兵が行った略奪(掠奪)や強姦、放火や殺人などは南京が陥落して戦闘が終わった後のことですから、「已ムナキ次第」などと許容できる問題ではありません。

南京陥落の際、司令官の松井が城内に入る部隊を限定して無秩序な日本兵の乱入を防いでいたならそうした非違行為は少なくとも城内では起こらなかったはずですから、「已ムナキ次第」などと消極的にでも許容できるものではないのです。

こうした認識しか持てない人間が総司令官だったのですから、南京における前代未聞の大暴虐事件は起こるべくして起こったと言えるのかもしれません。