第五師団の国崎支隊は、南京攻略戦に参加した第十軍に配属されて中国軍の退路を遮断する任務を帯びて慈湖鎮付近から長江(揚子江)を渡河し南京城の下関対岸にあたる浦口に進軍した別動隊ですが、この国崎支隊に属した歩兵第41連隊第12中隊が現地で記録した戦闘詳報が公開されています。
この国崎支隊歩兵第41連隊第12中隊は下関の対岸に位置する浦口周辺で多数の捕虜を捕縛していますので、それが記述されたこの戦闘詳報は、当時の日本軍が敗残兵にどのような「処置」を取ったかを知るうえでも貴重な公式記録となっています。
では、この国崎支隊に属した歩兵第41連隊第12中隊の戦闘詳報は南京事件で起こされた暴虐行為についてどのように記録しているのか確認してみましょう。
国崎支隊(歩兵第四十一連隊第十二中隊)の戦闘詳報は南京事件(虐殺)をどう記録したか
(1)昭和12年12月14日「捕虜ハ後刻処置スルヲ以テ」
国崎支隊歩兵第41連隊第12中隊の昭和12年12月14日の戦闘詳報には、下関の揚子江上流約7㎞にある中洲で約2500名の捕虜を捕縛した際の情景を次のように報告しています。
一、〔中略〕中隊長ハ尖兵タル第二小隊(小隊長藤田少尉)ニ依然前堤防ヲ前進セシム前進スルコト約八百米俄然前方並ニ左側ヨリ敵ノ射撃ヲ受ケ第二小隊ハ直チニ之ニ応戦シ中隊長ハ本隊ノ戦闘小隊タル第一小隊ニ戦闘加入ヲ命ス敵ハ暫時ニシテ沈黙シ白旗ヲ掲ク中隊長ハ現姿勢ノママ捕虜ヲシテ他ノ同島ニ在留スル支那兵ニ対シ降伏セシムル如ク務メシム此ノ戦闘ニ於テ花戸一等兵ハ胸部ニ貫通銃創ヲ受ケ戦死セリ
一、中隊長ノ計画ハ図ニ当リ午後七時三十分ヨリ続々兵器ヲ持参シ白旗ヲ揚ケテ我第一線ニ投降ス中隊長ハ兵器ト捕虜ヲ区分シ之カ整理ヲ行ヘリ翌朝午前十時頃ニ至リ漸ク止ム
中隊長ハ日本語ヲ解スル捕虜ニ尋ネシニ殆ト全員投降セリト答タリ一、是ヨリ先支隊長ニ捕虜ノ処分兵器ノ処置ノ指示ヲ受ケシニ武装ヲ解除後兵器ハ中隊ト共ニ捕虜ハ後刻処置スルヲ以テ其レ迄同島ニ於テ自活セシメヨトノ命令アリタリ
〔中略〕此ノ戦闘ニ於ケル兵器及捕虜左ノ如シ
出典:国崎支隊歩兵第41連隊第12中隊 戦闘詳報(昭和12年12月14日)※偕行社『決定版南京戦史資料集』南京戦史資料集Ⅰ604頁
1,捕虜 二千三百五十人
〔以下略〕
この点、この戦闘詳報の記述からは、次の2つのことがわかります。
ア)抗戦する敗残兵が投降の勧告に従順に応じたこと
日本軍の南京攻略戦は包囲殲滅戦だったため中国軍守備隊は逃げ道を絶たれて”袋の鼠”状態に置かれていましたが、陥落前日の12日夕方には唐生智ら軍幹部が逃走してしまったため統制も失われ、城内に残された中国兵は総崩れとなってそのほとんどが軍服と武器を投げ捨てて逃走を図りました。
そうして総崩れとなった敗残兵は城内に残って避難民に紛れ込んだり、南京城の西から北へ流れる揚子江を渡って対岸の浦口(ホコウ)方面に撤退しようとしましたが、その一部は南京城の西に位置する江興洲と呼ばれた中州に渡ったところで対岸を北上していた国崎支隊によって掃討を受けています。
戦闘詳報のこの部分では揚子江(長江)の中州にいた多数の敗残兵と交戦していることが報告されていますので、別動隊の国崎支隊が南京陥落後に江興洲に渡って来た敗残兵と中州で戦闘になった際のものでしょう。
この点、この戦闘詳報は日本軍側で死者が出たと報告していますので、敗残兵から抵抗があったことがわかりますが、この記述で重要なのは第41連隊第12中隊が捕虜の投降を促している部分です。
この戦闘詳報は「捕虜ヲシテ他ノ同島ニ在留スル支那兵ニ対シ降伏セシムル如ク務メシム」と報告していますから、戦闘中に投降してきた敗残兵(投降兵)をいったん捕縛したうえで、その投降兵に未だ抵抗を続ける残りの敗残兵の説得に赴かせ、残る敗残兵の全てを投降させることに成功しています。
つまり、苛烈な抵抗を続ける敗残兵であっても、それはただ逃げ道を絶たれて勝てる見込みを知らない状況に置かれたなかで抵抗していただけなので、この国崎支隊の第41連隊第12中隊のように投降を呼びかければ簡単に武装解除して投降する用意があったわけです。
この第41連隊第12中隊の記録は、12月14日の時点ですでに敗残兵が投降の呼びかけに応じて武装解除するという前例が実際に作られていたことを意味するものと言えるでしょう。
この点、ハーグ陸戦法規は交戦者に人道的な配慮を取ることを要請していますから、この抵抗する敗残兵に投降を呼びかけて降伏を促した第41連隊第12中隊のここまでの対応は、ハーグ陸戦法規の要請に沿う適切な対応だったと言えます(※この点の詳細は→南京事件における捕虜(敗残兵)の処刑が「虐殺」となる理由)。
敗残兵の掃討は本来、この第41連隊第12中隊がしたように、抵抗する敗残兵であっても攻撃して殲滅(撃滅)するのではなく、投降を呼びかけて降伏を促すことがハーグ陸戦法規の上でも求められていたのです。他の部隊も、この第41連隊第12中隊のしたように投降を促すべきだったでしょう。
しかし、この第41連隊第12中隊の前例は全く生かされることはありませんでした。この14日以降も城外では散発的な抵抗が続いていましたが、そうして抵抗する敗残兵に対して日本軍は降伏を促すことなく攻撃を加え、徹底的に殲滅(撃滅)していたからです(※たとえば、第十軍の第六師団では「兎狩りみたい」に敗残兵を殺したり、筏に乗って「次から次へと流れてくる」中国兵が皆殺しにされる描写が記録されています→『前田吉彦日記は南京事件をどう記録したか』)。
こうした抵抗する敗残兵の殲滅に関しては、「敗残兵掃討は戦闘によるもので違法性はない」とか「抵抗してきた敗残兵を殺すのは当然だ」などと、その殺害を正当化する意見を持つ人も多いかもしれませんが、散発的な抵抗を続ける敗残兵であっても投降を呼びかければ武装解除して降伏することはこの14日に行われた第41連隊第12中隊の前例によって明らかとなっていたわけですから、そうした敗残兵の殲滅を「抵抗してきた敗残兵を殺すのは当然だ」とか「戦闘だから違法ではない」と正当化することはできないはずなのです。
この第41連隊第12中隊の戦闘詳報の記述は、南京陥落後も散発的な抵抗を続ける敗残兵であっても降伏を呼びかけることで武装解除し投降に応じる用意があったことを明らかにするとともに、その反面、この第41連隊第12中隊の前例に倣うことなく敗残兵を攻撃して殲滅した日本軍の敗残兵掃討がハーグ陸戦法規に違反する違法性を帯びたものであったことを示す、公式記録(公式文書)と言えるかもしれません。
イ)国崎支隊の支隊長から捕虜2,350名の「処置」を命じられたこと
この戦闘詳報は、上に挙げた引用箇所の後半部分で「支隊長ニ捕虜ノ処分…ノ指示ヲ受ケシニ」「捕虜ハ後刻処置スル…トノ命令アリタリ」としていますが、ここで捕らえられた捕虜2,350名がその後具体的にどのように「処分」「処置」されたのかについては、この戦闘詳報には記述がないので判然としません。
この点、偕行社の『南京戦史』は、この2,350名の捕虜について下に引用するページで「捕虜は釈放して…」「これを釈放している」との見解を示していますので、この2,350名の捕虜については解放されたと考える人も多いかもしれません。
〔中略〕同夜碼頭守備隊の一部(歩四一の第七、第十二中隊)と独工一〇に掃蕩を命じ、同隊は約二千三百五十名の捕虜を得〔中略〕たが、捕虜は釈放して十五日朝帰還した。
出典:偕行社『決定版南京戦史資料集』南京戦史 244頁
浦口に進撃した国崎支隊の歩四一第十二中隊の戦闘詳報によれば、同隊は十四日夜、歩四一第七中隊、永山舟艇部隊と協同して揚子江の南京寄りの中州、江興洲(江心洲ともいう)を掃蕩して捕虜二、三五〇人を獲たのち、これを釈放しているが〔以下略〕
出典:偕行社『決定版南京戦史資料集』南京戦史 319頁
しかし、その偕行社の『南京戦史資料集 資料集Ⅰ』に掲載されている歩兵第四十一連隊第十二中隊の昭和12年12月14日の戦闘詳報を確認しても、当該捕虜2,350人を釈放したとの記述は見られません(同資料集Ⅰ603∼604)。
また、この捕虜2,350名に関しては、国崎支隊の戦闘詳報(昭和12年12月3日∼同年12月16日)の昭和12年12月14日の部分にも下に引用するようにその記録がありますが、当該戦闘詳報の14日の箇所にも翌日の15日の箇所にも、その2,350名の捕虜が釈放されたとの記述は見当たりません。
〔中略〕掃蕩隊ハ同夜同島ニ達シ掃蕩ヲ開始シ同島ニ於ケル武装解除人員ハ約二千三百五十名ニシテ小銃約六百軽機約四十、重機約四十ヲ鹵獲シ十五日早朝碼頭ニ帰還セリ
出典:国崎支隊『戦闘詳報』第十号(昭和12年12月3日∼同年12月16日)昭和12年12月14日※偕行社『決定版南京戦史資料集』南京戦史資料集Ⅰ598頁
この偕行社の『南京戦史』が何を根拠に「歩四一第十二中隊の戦闘詳報によれば…これを釈放している」と結論付けているのか不明ですが、偕行社の『南京戦史資料集』に掲載されている戦闘詳報を確認する限り、「釈放した」との結論は根拠がないと言うほかないのではないでしょうか。
他方、都留文科大学名誉教授で歴史学者の笠原十九司氏がその著書『南京事件』(岩波書店)の中で言及しているように(同書162頁)、昭和12年12月12日午後6時の時点で第十軍の司令官柳川平助中将から「残敵ヲ捕捉撃滅スヘシ」との指令(丁集団命令)がすでに出されていましたから、その命令どおりに「捕捉(捕縛)」して捕虜としていることを踏まえれば、その命令どおり「捕縛」した捕虜を「撃滅」つまり「処刑」したものと考えるのが常識的です。
【丁集団命令(丁集作命第六十六号)昭和12年12月12日午後6時】
一~ニ〔省略〕
三、国崎支隊ハ主力ヲ以テ浦口附近ヲ占領シ残敵ヲ捕捉撃滅スヘシ
四∼〔以下略〕集団司令官 柳川平助
出典:丁集団命令(丁集作命第六十六号)昭和12年12月12日午後6時 集団司令官 柳川平助※偕行社『決定版南京戦史資料集』南京戦史資料集Ⅰ448頁
第十軍の司令官から「捕捉撃滅スヘシ」との命令が出ているのに、それに背いて国崎支隊が懲罰覚悟で、しかも2,350名にも上る大量の捕虜を解放するとは考えにくいからです(※ちなみに陸軍刑法で抗命は死刑または無期もしくは10年以上の禁錮)。
したがって、常識的に考えれば、この歩兵第四十一連隊第十二中隊の昭和12年12月14日の戦闘詳報に記述された「処置」は、12日に第十軍司令官の柳川平助から命じられた「撃滅」を意味するもので、「処刑」を命じるものであったと考えられますので、この2,350名の捕虜は国崎支隊において処刑されたものと推測されます。
ですがもちろん、捕虜として捕らえればハーグ陸戦法規に従って人道的な配慮を取ることが要請されますから処刑することはできませんし、仮にその捕虜にした2,350名に何らかの非違行為があって処刑が必要だったとしても、捕虜を処刑するには軍事裁判(軍法会議)に掛けて非違行為を裁判で認定しなければなりませんから、軍事裁判(軍法会議)を省略して処刑すること自体、当時の国際法に違反する「不法殺害」と言えます(※この点の詳細は→南京事件における捕虜(敗残兵)の処刑が「虐殺」となる理由)。
また、先ほどの(1)の部分で説明したように、この捕虜は投降すれば命を助けてやると伝えて捕縛した捕虜が含まれることになりますが、ハーグ陸戦法規は「敵国又は敵軍に属する者を背信の行為を以て殺傷すること」を禁止していますので(ハーグ陸戦法規第23条1項ロ)、投降すれば助命すると伝えて投降させた敗残兵捕虜を処刑したとなれば、それは明らかな戦争法規違反です。
【ハーグ陸戦法規第23条】
特別の条約を以て定めたる禁止の外、特に禁止するもの左の如し。
出典:ハーグ陸戦法規
イ 毒又は毒を施したる兵器を使用すること
ロ 敵国又は敵軍に属する者を背信の行為を以て殺傷すること
ハ〔以下省略〕
したがって、このハーグ陸戦法規第23条1項ロの規定から考えても、この歩兵第四十一連隊第十二中隊の昭和12年12月14日の戦闘詳報に記述された「処置」は、明らかな戦争法規違反にあたるものであり「不法殺害」であって「虐殺」以外の何物でもなかったと言えます。
この国崎支隊歩兵第41連隊第12中隊の昭和12年12月14日の戦闘詳報に記述された2,350名の捕虜に関する部分については、日本軍による国際法規に違反する「不法殺害」すなわち「虐殺」があったことを公式記録が裏付ける貴重な資料と言えるでしょう。