佐々木到一私記は南京事件をどう記録したか

佐々木到一(ささき とういち)は、南京攻略戦に参加した上海派遣軍のうち第十六師団の歩兵第三十旅団長を務めた陸軍少将で、南京攻略戦について記述した私記が公開されています(※私記の原題は『ある軍人の自伝』で南京陥落から約1年4カ月後に書かれたもの→※太平洋戦争研究会編『証言・南京事件と三光作戦』河出文庫 33頁参照)。

佐々木到一少将の私記には、強姦や掠奪の具体的な記述は見られませんが、虐殺の記述もいくつかありますので、歩兵第三十旅団における虐殺などの暴虐行為の実態を知るうえで貴重な資料と言えます。

では、佐々木到一少将の私記では南京攻略戦で起きた日本軍の暴虐行為についてどのように記録されているのか確認してみましょう。

佐々木到一少将の私記は南京事件をどう記録したか

(1)昭和12年12月13日「上官の制止を肯かばこそ片はしより殺戮する」

昭和12年12月13日には、明確に「虐殺」と判断できる捕虜殺害の記述があります。

〔中略〕その後俘虜続々投降し来り数千に達す。激高せる兵は上官の制止を肯かばこそ片はしより殺戮する。多数戦友の流血と十日間の辛惨を顧みれば兵隊ならずとも「皆やってしまへ」と云ひ度くなる。

出典:佐々木到一私記 昭和12年12月13日※偕行社『決定版南京戦史資料集』南京戦史資料集Ⅰ272頁

13日は南京が陥落した日ですから、その陥落時に投降兵を殺害したものでしょう。「上官の制止を肯かばこそ」としていますので佐々木到一少将が虐殺を指示したわけではないようですが、旅団長の地位にありながら兵士による虐殺を止められなかったことについては責任を免れません。

なお、南京攻略戦の過程で日本軍による暴虐事件が多発した要因についてはいくつか挙げられていますが、その中でも大きな要因の一つとして言及されるのが、激戦による報復感情です。

上海攻略から南京陥落までの過程では中国軍の苛烈な抵抗によって日本軍は相当な兵力を失いましたが、当時の師団は地方ごとに部隊が組織されていましたので、上海戦から続けられた熾烈な戦闘で戦死した将兵の多くは、生き残った隊員の幼馴染や親戚や、故郷を同じくする大切な仲間でした。

そうして失った仲間への想いが「友の仇」との報復感情に繋がり、それが捕虜にした中国兵や、徴発と称する掠奪のために押し入った民家などで見つけた女性などに向けられて「皆やってしまへ」と殺害や強姦、掠奪や放火を正当化していったのかもしれません。

この佐々木到一少将私記の13日の部分にある『辛惨を顧みれば兵隊ならずとも「皆やってしまへ」と云ひ度くなる』の記述は、そうした報復感情が兵士に蔓延していたこと、またそうした感情が捕虜の殺害につながったことを示す記録と言えるでしょう。

(2)昭和12年12月14日「従順の態度を失するものは容赦なく即座に殺戮」

続く12月14日には抵抗する敗残兵を「容赦なく即座に殺戮」したことが記録されています。

敗残兵と雖尚部落山間に潜伏して狙撃を続けるものがゐた。従つて抵抗するもの、従順の態度を失するものは容赦なく即座に殺戮した、終日各所に銃声が聞こえた。太平門外の大きな外壕が死骸で埋められてゆく。

出典:佐々木到一私記 昭和12年12月13日※偕行社『決定版南京戦史資料集』南京戦史資料集Ⅰ273頁

南京陥落の際は、防衛に当たっていた中国軍は総崩れになって揚子江対岸の浦口への脱出路となる下関(シャーカン)の挹江門方面に逃げたり、あるいは武器を投げ捨て兵服を脱ぎ捨てて一般市民の平服に着替えて市内に潜伏し日本軍の暴虐から逃れようとしたことがわかっていますが、城外ではこの記述のように抵抗した兵士もいましたので、そうした敗残兵を「容赦なく即座に殺戮」したのでしょう。

この点、南京城の「城内」では中国兵による抵抗がなかったかと疑問に思う人もいるかもしれませんが、洞富雄氏によれば、東京裁判に提出された難民区国際委員会委員長ラーベの文書や金陵大学のベーツ博士の証言などでも南京陥落の際に市内では中国軍による抵抗がなかったと記録されているようですから(洞富雄『決定版【南京大虐殺】』徳間書店87頁)、南京城の「城内」では中国兵による抵抗はなかったものと考えられています。

第十軍において南京戦に参加した岡本健三氏のように城内で日本兵が刺されて殺されたというような証言をする元兵士もあるようですが(前掲『決定版【南京大虐殺】』86頁下段)、陥落当時の南京では日本兵による婦女への強姦に抵抗した市民がいたという記録が多数散見されますから、日本兵の暴虐行為に抵抗した市民による正当防衛や復讐の類に過ぎず、「城内」においては敗残兵による抵抗はほとんどなかったと考えるべきでしょう(※なお、城内で中国兵の抵抗が全くなかったことについては前掲の洞富雄『決定版【南京大虐殺】』86∼87頁で詳しく論じられていますのでそちらを参照してください)。

〔中略〕張長生という名の回教住民は、背丈高く頑健な身体で、武術の心得があった。〔中略〕ある夜、日本兵が家の中庭に乱入したが、日寇どもが隣家の婦人を獣のように凌辱するのに激怒し、大木の棍棒を振り回して家の中から這い出てきた一人の鬼を打ち倒し、さらに二人目の鬼を打とうとしていたところで一発の弾丸がこの壮士の命を奪い去った。このような出来事は数多くあり、わたしたち回族人民はすべての中華の子女と同様、侮りを許さないのである!」

出典:南京市文史資料研究会編『証言・南京大虐殺』青木書店 81∼82頁

〔中略〕当時わたしはワンピースの中国服を着ていたが、この鬼はわたしの服のボタンを外そうとした。わたしは鬼の腰にナイフが一本差してあるのを見てとった。〔中略〕この時、わたしは生死を度外視していて、足でけっとばし、頭突きをくらわせ、歯でかみついた。〔中略〕わたしは一人で三人の鬼と相対し、生死を掛けてナイフの柄を握りしめていたが、相手の鬼も必死にこのナイフを奪おうとし、わたしたちは地面をゴロゴロころがりながら格闘した。他の二人の鬼は刀で、わたしの身体をめちゃくちゃに刺したり斬りつけたりしてきて、私の足は何ヵ所も刺され、鮮血が流れたが、わたしは少しも痛さを感じなかった。顔面も何ヵ所か刺され、鮮血が噴出し、衣服は朱にそまったが、私はなおも必死に格闘した。

出典:南京市文史資料研究会編『証言・南京大虐殺』青木書店 90∼91頁

ところで、この記述にある「容赦なく即座に殺戮」の部分ですが、仮に敗残兵が抵抗してきた事実があったとしても「容赦なく即座に殺戮」するのは当時の国際法規の枠組みでは認められません。

なぜなら、『南京事件における捕虜(敗残兵)の処刑が「虐殺」となる理由』のページでも論じたように、ハーグ陸戦法規の前文は交戦者に人道的配慮をするよう要請しているからです。

南京防衛軍司令官の唐生智は12日の夕方から夜にかけて既に南京を離脱しており、13日には既に指揮系統は失われて取り残された中国兵は勝てる見込みのないことを知らないままま絶望的な状況に置かれて抵抗していたにすぎませんから、ハーグ陸戦法規に従えばそうした敗残兵に対しては人道に配慮して投降を呼びかけて捕縛すべきです。

にもかかわらず投降を呼びかけることもないまま「容赦なく即座に殺戮」したのであれば、それは当然国際法違反の問題を惹起させるでしょう。

この「容赦なく即座に殺戮」の部分は、佐々木到一の第三十旅団においてハーグ陸戦法規に違反する違法な殺害、つまり「虐殺」があったことを裏付ける記録と言えるかもしれません。

なお、「太平門外の大きな外壕が死骸で埋められてゆく」の部分については、上海派遣軍の参謀長だった飯沼守が残した日記の昭和12年12月26日に太平門で第十六師団の第33連隊が千数百の捕虜を処刑した記述が(※詳細は→飯沼守日記は南京事件をどう記録したか)、また第十六師団の司令官中島今朝吾が残した日記の12月13日にも太平門で1300の捕虜を処分した記述が見られますので(※詳細は→中島今朝吾日記は南京事件をどう記録したか)そちらも参照してください。

(3)昭和12年12月16日「数百の敗兵を引摺り出して処分した」

佐々木到一私記の昭和12年12月16日には、敗残兵の処刑に関する記述が見られます。

命に依り紫金山北側一帯を掃蕩す、獲物少しとは云へ両聯隊共に数百の敗兵を引摺り出して処分した。

出典:佐々木到一私記 昭和12年12月16日※偕行社『決定版南京戦史資料集』南京戦史資料集Ⅰ274頁

ここでは「両聯隊共に数百の敗兵を引摺り出して処分した」と記述されていますが、佐々木到一が旅団長を務めた歩兵第三十旅団には歩兵第三十三連隊(野田謙吾大佐)と歩兵第三十八連隊(助川静二大佐)の2つの連隊がありましたので、その2つの連隊がそれぞれ数百人の敗残兵を捕縛して「処分(処刑)」したことがわかります。

しかし、「引摺り出して」とある以上、それは戦闘の中での殺害ではなく、いったん捕縛したうえで処刑したことになりますが、敗残兵を捉えたならハーグ陸戦法規に従って捕虜として扱わなければならず、軍事裁判(軍法会議)を省略して処刑することはできませんので、これは明らかな「不法殺害」です(※この点の詳細は→南京事件における捕虜(敗残兵)の処刑が「虐殺」となる理由)。

したがって、この記述は第三十旅団の歩兵第三十三連隊と歩兵第三十八連隊において数百名ずつ、千人前後の規模に達する大規模な敗残兵虐殺があったことを裏付ける貴重な記録と言えるでしょう。

(4)昭和12年12月24日「査問工作開始」

佐々木到一私記の昭和12年12月23日から26日までの部分には、避難民から敗残兵を摘出するための「査問工作」に関する記述が見られます。

十二月廿三日
会議。

十二月廿四日
同右、査問工作開始。

十二月廿六日
宣撫工作委員長命ぜらる、城内の粛清は土民に混ぜる敗兵を摘出して不穏分子の陰謀を封殺するに在ると共に我軍の軍規風紀を粛清し民心を安んじ速に秩序と安寧を恢復するに在つた。〔以後省略〕

出典:偕行社『決定版南京戦史資料集 南京事件資料集Ⅰ 275∼276頁

南京陥落後の南京市内(城内)では、逃げ遅れた多数の敗残兵が武器を捨て軍服を脱ぎ捨てて難民区(安全区)に紛れ込んでいましたが、日本軍はそうした敗残兵を摘出して連行し処刑(虐殺)していきました。

その敗残兵の抽出は、12月の下旬頃になると市民の人民登録(登記)手続きを介して行われるようになります。避難民に市民であることを登録(登記)させて通行証を交付し、その通行証を持たないものを敗残兵であるとしてとらえるのが狙いでした。

市民に対してはその登録(登記)手続きを「居住および仕事の便宜を図るため」とアナウンスしましたが、その実態は避難民の中から敗残兵をあぶりだす「査問工作」だったわけです(この点の詳細は洞富雄『決定版【南京大虐殺】』徳間書店 88∼90頁に詳しい)。

しかし、この「諮問工作」も大変杜撰なもので、字が書けなかったり言葉が通じないというだけで登録(登記)から外されて連行され処刑された事例も多くあるようです。

占領したあと、良民とゲリラとの区別がつかなかった。それで、良民証いうのを日本軍が発行した。自分の部隊でも毎日受付みたいなことをやった。生年月日、職業、性別を書かせるんだが、字を書ける中国人はとても少なかった。字を書けない者には説明するんだが、言葉が分からない。それでもはっきりものをいうやつはよかったんだが、モタモタしてシドロモドロしていると、怪しいとみられて別にされ、処分されてしまったんだ。

出典:洞富雄『決定版【南京大虐殺】』徳間書店 70∼71頁※岡本健三の証言

1937年12月25日

〔中略〕難民は一人残らず登録して「良民証」を受取らなければならないということだった。しかもそれを十日間で終わらせるという。そうはいっても、二十万人もいるのだから大変だ。早くも、悲惨な情報が次々と寄せられている。登録のとき、健康で屈強な男たちが大ぜいよりわけられた(剔出)なのだ。行き着く先は強制労働か、処刑だ。若い娘も選別された。兵隊用の大がかりな売春宿をつくろうというのだ。そういう情け容赦ない仕打ちを聞かされると、クリスマス気分などふきとんでしまう。〔後略〕

1937年12月26日

〔中略〕安全区本部でも登録が行われた。担当は菊池氏だ。この人は寛容なので我々一同とても好意を持っている。安全区の他の区域から、何百人かずつ、追いたてられるようにして登録所へ連れてこられた。今までにすでに二万人が連行されたという。一部は強制労働にまわされたが、残りは処刑されるという。なんとむごいことを……。我々はただ黙って肩をすくめるしかない。くやしいが、しょせん無力なのだ。〔後略〕

出典:ジョン・ラーベ著『南京の真実』講談社 143∼146頁

1937年12月29日

〔中略〕きょうは男性の手を調べて、疑わしいと思う者を選び出していた。もちろん、選び出された多くの者は兵士ではなかった。よろしくとりなしてほしいと頼みにきた母親や妻は数えきれない。彼女たちの息子は仕立て職人であったり、製パン職人であったり、商人であった。残念ながら、わたしには何もしてやることができなかった。

出典:ミニー・ヴォートリン『南京事件の日々 ミニー・ヴォートリンの日記』大月書店85∼86頁

佐々木到一は「民心を安んじ速に秩序と安寧を恢復するに在つた」と書き残していますが、「民心を安んじ」るどころか、中国の無害な一般市民を恐怖に陥れたのが日本軍が行った「査問工作」だったわけです。

(5)昭和13年1月5日「下関に於て処分せるもの数千に達す」

敗残兵の処刑については佐々木到一私記の昭和13年1月5日にも記述がありますので紹介しておきましょう。

査問会打切、此日迄に城内より摘出せし敗兵約二千、旧外交部に収容、外国宣教師の手中に在りし支那傷病兵を俘虜として収容。城外近郊に在つて不逞行為を続けつつある敗残兵も逐次捕縛、下関に於て処分せるもの数千に達す。

出典:佐々木到一私記 昭和13年1月5日※偕行社『決定版南京戦史資料集』南京戦史資料集Ⅰ276頁

下関(シャーカン)は南京城の北西、揚子江の江岸にあり南京で唯一の脱出路となった地域ですが、そこでは南京から逃れようと殺到した敗残兵と一般市民の多くが日本軍によって殺戮され、また城内で捕らえられた敗残兵の多くもここに連行されて処刑されたことがわかっています。

佐々木到一私記のこの部分では「下関に於て処分せるもの数千に達す」と記述されていますから、おそらく城内の敗残兵掃討で捕らえた敗残兵を下関に連れてきて、処刑したものと思われます。もちろんその「数千」はあくまでも佐々木到一隷下の歩兵第三十旅団で摘出した俘虜にすぎませんから、他の部隊が摘出した者も含めれば万単位の市民を含む中国人が抽出されて処刑されたに違いありません。

しかし先ほども説明したように、敗残兵を捉えたなら捕虜として処遇することがハーグ陸戦法規で定められていたわけですから処刑などできませんし、そもそも処刑するには軍事裁判(軍法会議)でその違法行為を認定しなければなりませんので、軍事裁判(軍法会議)もしないまま処刑したこの数千人の「処分」は明らかな「不法殺害」に当たります(※この点の詳細は→南京事件における捕虜(敗残兵)の処刑が「虐殺」となる理由)。

したがって、この部分も佐々木到一の率いた歩兵第三十旅団が数千人の捕虜を「虐殺」したことを裏付ける貴重な記録と言えるでしょう。