「桜会」とは、昭和5年に陸軍の中堅将校が中心となって国家改造を目的として結成された結社のことを言います。
陸軍大佐の橋本欣五郎が中心となり、大多数の陸軍大学校出身とその他の一般将校によって組織されました。昭和6年初頭には50名にも達する会員が名を連ねていて、定期的に会合が開かれ議論が交わされていました。
桜会の目的は彼らの認識では”腐敗”していた政党政治を改め、天皇を中心とした国政の実現を目指すところにありました。以下、桜会の「趣意書」を一部分引用してその目的を紐解いてみましょう。
……(※筆者中略)而して今や此頽廃し竭せる政党者流の毒刃が軍部に向かい指向せられつつあるは之を「ロンドン条約問題」に就て見るも明らかな事実なり。然るに混沌の世相に麻痺せられたる軍部は此の腐敗政党政治に対してすら奮起するの勇気と決断を欠き、辛うじて老耄己に過去の人物に属すべき者に依りて構成せられある枢密院に依りて自己の主張せざるべからざる処を代弁させられたるカの如き不甲斐なき現象を呈せり。(※筆者中略)……
※出典:『橋本大佐の手記』中野雅夫 昭和38年発行 みすず書房|半藤一利編著「昭和史探索1926-45 Ⅱ」ちくま文庫 100~103頁を基に作成
過般、海軍に指向せられし政党者流の毒刃が陸軍軍縮問題として現われ来るべきは明かなる処なり。故に吾人軍部の中堅をなすものは十分なる結束を堅め、日常其心を以て邁進し、再び海軍問題の如き失態なからしむるは勿論、進んでは強硬なる愛国の熱情を以て腐敗し竭せる為政者流の腸を洗うの概概あらざるべからず。(※筆者中略)……
以上、内治外交上の行詰りは政党者流が私利私欲の他一片の奉公の大計なきに由来するものにして、国民は吾人とともに真実大衆に根幹を置き、真に天皇を中心とする活気あり明らかなるべき国政の現出を渇望しつゝあり。(※筆者中略)……
『統帥権干犯問題とは(ロンドン軍縮条約の海軍省と軍令部の対立)』のページでも解説したように、昭和5年1月からロンドンで開かれた海軍軍縮会議では海軍省と海軍軍令部の内部対立から「統帥権干犯問題」が議論となりました。
海軍補助艦の対米比率を「7割・6割・5万2千トン」とする妥協案で条約調印を進める(海軍省を含む)政府が、用兵上の理由から巡洋艦の総トン数「7割」に固執する海軍軍令部の強硬派から「天皇の統帥権を補翼する軍令部の反対を押し切って条約を調印したのは軍令部の補翼事項たる統帥権を侵すものだ」と批判され政界をも巻き込んだ論争に発展したのです。
この統帥権干犯問題では、条約調印を推し進めた政府と海軍省、また昭和天皇に条約調印の必要性を助言した鈴木貫太郎侍従長など天皇側近が、軍令部の統帥権を干犯して軍縮を強行したとの構図が海軍の強硬派で形作られましたから、次は陸軍にも軍縮の矛先が向けられるとの危機感が醸成されていくことになりました。
一方、陸軍の強硬派の中には満州における中国との対立やソ連の脅威もあって国防のためには軍備の縮小は容認できないとの考えがありますから、海軍の轍を踏んで軍縮に踏み切らせるわけにはいきません。
そのため、陸軍の青年将校を中心に、政府の弱腰外交を批判して昭和天皇に要らぬ助言を吹き込む天皇側近(いわゆる「君側の奸」)を批判する声が高まっていき、その声が桜会の結成につながっていったのです。
しかし、こうした急進的思想を持つ若手中堅将校らの国家改造への渇望は、やがて三月事件や十月事件など政権奪取を目論んだクーデター計画へと発展し、敗戦に至るまでの軍部の独断へとつながっていきました。
そうした意味を考えれば、この桜会が当時の日本の方向性に与えた影響は少なからぬものがあったと言えそうです。