昭和元年(大正15年)の日本を取り巻く国際情勢と起きた事件等

大正天皇は大正15年(1926年)12月25日の午前1時25分に崩御されていますので、昭和元年はわずか1週間ということになります。

そのため昭和の時代は実質的には昭和2年から始まるともいえるわけですが、大正から昭和へと変わるこの年において当時の日本がどのような状況にあり、どのような事件があったのかという点を知っておくことは、激動の昭和史を理解するために非常に重要です。

そこでここでは、大正から昭和へと変わったこの昭和元年(大正15年※西暦1926年)において日本がどのような国際情勢の下に置かれていて、具体的にどのような事件があったのかという点について簡単に確認してみることにいたしましょう。

昭和元年(大正15年)当時の日本を取り巻く国際情勢

まず、昭和元年(大正15年※1926年)当時の日本が世界情勢の中でどのような状況に置かれていたのかという点を簡単に確認しておきましょう。

ア)蒋介石の国民政府軍による北伐と中国統一に向けた動き

中国では蒋介石の国民政府軍が北伐を開始しました。

少し時間を遡りますが、日露戦争で勝利した日本は清国と「満州ニ関スル条約」を結ぶことでそれまで帝政ロシアが満州に有していた諸権益を引き継いでいます。

具体的には、関東州(※遼東半島の先端部分)の大連や旅順の港を利用する権利、南満州鉄道(※長春(のちの新京)から旅順までの鉄道)の経営権、安奉アンポウ鉄道(※安東アントン(現在の丹東タントン)から奉天(現在の瀋陽)までの軍用鉄道)の経営権、南満州鉄道に属する炭鉱の採掘権、また鴨緑江オウリョッコウ(※朝鮮半島の北部付け根部分を東西に流れる大河)右岸地方の森林の伐採権です。

さらに、その鉄道の安全を守るためという理由で軍隊を駐留する権利も清国に認めさせています。

すなわちこれが、満州事変から日中戦争そして太平洋戦争へと戦争に突き進む過程で終始日本の方向性に影響を生じさせてきた満州の権益。のちに関東軍の謀略によって満州国という日本の傀儡国家となってゆくあの満州です。

こうした不平等条約を日本に結ばさせられた清国は1911年(明治44年)に孫文らによって倒されますが(辛亥革命)、革命によって成立した中華民国は中国を統一するまでには至らず、中国各地に軍閥が割拠し内戦状態が続きます。

そして1925年(大正14年)、孫文が道半ばで斃れると後継者とされていた蒋介石が中華民国の国民政府軍(国民党軍)を率い、中国北部に向けて進軍を開始したのです。これがいわゆる国民党軍の「北伐」です。

この北伐で国民政府軍(国民党軍)は北京にまで軍を進めます。当時の中国は内戦が終結に向かい中華統一が成し遂げられようとされていたわけです。

こうした国民政府軍(国民党軍)を率いる蒋介石の動きは満州に権益を持つ日本にも影響を及ぼします。清王朝を倒した国民政府からしてみれば、日本との間で武力を背景に結ばさせられた満州の権益に関する条約は国の主権を他国に渡すものに等しく是認できるものではないからです。

反帝国主義運動として1899年から1901年にかけて中国北部に広がった義和団事件以降、列強は中国各地に軍隊の駐留を認めさせ上海には租界を設けるなどしていたことから中国民衆の怒りは当初、欧米列強に向けられていました。

しかし、大正4年(1915年)に日本が中華民国政府に突きつけた「対華タイカ二十一カ条の要求(※南満州鉄道や安泰鉄道の経営権や関東州の租借権その他の特殊権益の期限を100年程度延長するなどを要求したもの)」の屈辱的な内容が中国国民の怒りの炎に油を注ぎます。

大正8年(1919年)には、二十一カ条の要求に抗議した北京の学生が日本から弾圧を受けるなど(五・四運動)、当時の中国は、さながら不平等条約に不満が爆発し攘夷の嵐が吹き荒れた幕末の日本のようであったかもしれません。

当然、中華統一を目指す国民政府軍が北進してくれば、満州における排日運動も以前にも増して広がり始めます。

こうした国民政府軍の北伐によって中国の統一が完成しようとし、日本が権益を持つ満州が騒々しくなってきたのが昭和元年(大正15年※1925年)の大陸における状況ということになるでしょう。

ちなみに、帝政ロシアは1917年(大正6年)にレーニンによる社会主義革命によって倒れていますので、昭和元年(大正15年)にはすでにソビエト連邦が誕生しています。

昭和元年における国内の政治・社会の状況等

昭和元年(大正15年)ごろの日本を取り巻く国際情勢を簡単に説明すると以上ですが、今度は国内の政治や社会の動向を確認してみましょう。

イ)第一次世界大戦が終結した後の大不況

大正から昭和に至る頃の日本の政治状況としてまず挙げられるのが大不況です。

日本も参戦した第一次世界大戦は輸出を拡大させ未曽有の好景気を創出しましたが、1919年にベルサイユ条約が結ばれ戦争が終結すると外需は一挙に縮小。一転して日本は輸入超過に陥ります。

連合国に名を連ねた日本は敗戦国のドイツが植民地にしていたマーシャル諸島やサイパン、トラック諸島など南洋諸島の権益を委任統治領として手に入れましたが、国内経済は崩壊の危機に直面していたわけです。

加えて、異常気象による凶作が重なり、農業を主産業とする東北地方は特に悲惨で娘の身売りなどを迫られる世帯も多く、戦勝の裏側では沈鬱な気配に覆われていました。

こうした経済危機の中で適切な政治のかじ取りを求められていたのが昭和元年頃の世相と言えます。

ウ)時の政権は若槻礼次郎内閣

このように、昭和元年(大正15年)ごろの日本は経済危機に直面していたわけですが、時の政権は若槻礼次郎内閣です。

若槻礼次郎は憲政会に所属する政治家ですから、当時も今と同じように政党政治です。

戦前の政治というと東条英機など軍部を中心とした組閣を思い浮かべがちですが、昭和7年(1932年)に五・一五事件で犬養毅が殺されて海軍出身の齋藤実が総理の座に着くまでは大日本帝国憲法の下でも一応は政党政治が機能していたわけです。

昭和元年に起きた事件等

最後に、昭和元年に日本で起きた事件等を簡単に確認しておきます。

エ)光文事件

光文事件とは大正天皇の崩御に伴う元号の決定に際して、東京日日新聞(今の毎日新聞)が新元号を「光文」と誤報してしまった事件です(※光文事件の詳細は→光文事件とは(新元号の誤報と横行を始めた報道・言論への暴力))。

「昭和」の新元号は「世界平和、万民安寧」を意味するもので「書経」の中の「克明俊徳、以親九族、九族既睦、平章百姓、百姓昭明、協和万邦、黎民於変、時雍」を出典としますが、この新元号が何に決まるかは当時の国民の間でも最大の関心ごとでした。

そのため新聞各社も競ってスクープを狙いますが、皇室に関する記事は当時とても神経質な性質のものでしたので誤報は致命的です。少しでも誤植や誤報があると暴力団(右翼)に脅迫を受けてしまうからです。

当時大阪毎日新聞の記者をしていた阿部真之助氏は後年、文芸春秋に寄せた記事で以下のように当時の状況を語っています。

一体皇室記事の報道ほど新聞および記者にとり、ニガ手はなかった。一点一画でも誤植や誤報があると、どこからか暴力団がやってきて、新聞社を脅迫した。(※当サイト筆者中略)オドカシと高をくくっていても、ピストルや短刀を目の前に突きつけられての交渉である。いい心持がするはずがなかった。(※当サイト筆者中略)あるいは暴力恐喝者を、警察につき出せば片附くと考える人があるかも知れない。しかし愛国兼暴力業者に対しては、警察はまったく無力だった。新聞は無警察の状態において、自からを守らなければならなかったのである。(※当サイト筆者中略)
明治の末年から、大正の初期にかけては、暴力団も微力で、甚しく新聞の煩いとなるほどのことはなかった、それが俄かに暴威を振うようになったのは、床次竹二郎が内相時代、全国の博徒を糾合し、国粋会をハジめて以後のことであった。

※出典:阿部真之助著「「昭和」という名の年号」「文芸春秋」臨時増刊 昭和メモ 昭和29年7月5日発行 文芸春秋社刊(※半藤一利編著「昭和史探索1926-45 Ⅰ」ちくま文庫 35~37頁を基に作成)

そうした中、東京日日新聞が大正15年12月25日の午前3時すぎに元号を「光文(であろう)」とする号外を出し報知新聞も後追いで報じてしまうのですが、正午に近くなったころ朝日新聞と時事新報から「昭和元年ト為ス」旨の勅語が出たとする号外が出されて「光文」が誤報であったことが明らかとなっていったのです。

この東京日日新聞の「光文」は明らかな誤報だったわけですから新聞の信用を棄損した以上何らかの処分は必要と判断され、責任者が異動、「光文」を報じた担当記者は退社となりますが、前述した阿部真之助氏は前掲の記事で「しかし頻々とやってくる脅迫に堪えかねたということもあるに違いなかった」と述べています。

すなわち、こうしたマスコミ・メディアに対する暴力、報道(言論・表現)の自由が暴力によって抑え込まれる風潮が勢いを増しつつあった頃に幕を開けたのが「昭和」という時代だったということになるのかもしれません。

参考文献
・半藤一利著「昭和史 1926-1945」平凡社ライブラリー
・半藤一利著「B面昭和史 1926-1945」平凡社ライブラリー
・半藤一利編著「昭和史探索1926-45 Ⅰ」ちくま文庫
・保坂正康著「昭和陸軍の研究」上巻 朝日新聞社