オーストラリアでおじさんから聞いたベトナム戦争での虐殺の話

もう20年以上前の話だけどオーストラリアをバイクで一周したことがありましてね。シドニーがスタートでキャンベラの牧場で2週間働いてブリスベンまで北上してまた2週間イチゴ農場で働いて「次はエアーズロックだ」って、今はアボリジニ語でウルルって呼ばれてる砂漠の真ん中目指して走らせてたんです。

で、オーストラリアの真ん中にアリススプリングスって比較的デカい街があって、そこから南に200㎞下ったところのガソリンスタンドを右折してさらに200㎞走ったらウルルなんですけど、ちょうどそのガソリンスタンドのところまで来たところでエンジンからシャリシャリ音が聞こえてきたんですよ。

こりゃヤバイってエンジンオイル確認してみたらほとんど空っぽで。まぁエンジンが焼き付いちゃってたんですね。オイルは毎朝チェックしてたし漏れた形跡もなくて、もしかしたらあそこらへんは50℃を超えるぐらい暑いからそれが原因かなとかいろいろ考えたけどまあ原因は分かりません。

で、今はどうか知らんけどアリスからウルルまではそのGS一軒あるだけであとはなんもない砂漠だから修理はアリスまで戻んなきゃいけなくて、ウルルはいったんあきらめようってとりあえずその晩はそのGSの裏にある現地ではキャラバンパークって呼ばれてるキャンプ場にテント張って飯食ってたんです。

そしたら車で一人旅してるスイス人が話しかけてきて二人でメシ食いながらその話しをしたら「そんなら明日は俺の車で連れてってやるよ」って言われて次の日その人に車でウルルに連れてってもらったんです。で、今のウルルでは禁止されてるけど当時のエアーズロックって登山が認められてたんですよね。

当然自分も登る気だったんですけど現地に着いたらそのスイス人が「俺は登らない」って言いだして、なんでだって聞いたらしんどいって言うんです。なんだよつまんねーって連れてきてもらった恩も忘れて自分馬鹿だからチョット不貞腐れたんだけど待たせて一人で登るわけにはいかないから渋々諦めました。

でも後でよく調べたらウルルはアボリジニの聖地だから登山は当時から問題になってたんですよね。当時は登ってた人もたくさんいたけど今思えば登らなくてよかったってそのスイス人に感謝してます。もし登ってたら一生後悔したと思うから。もしかしたら彼もそういう配慮をしてくれたのかもしれません。

私はただのアホでしたね。まぁそんな感じでその辺観光してキャラッパに戻ってまた一泊して次の日は空っぽになったエンジンオイル補給してシャリシャリ言わせながらアリスに戻ったんですけど、バイク屋行ったら「エンジン焼き付いてるけど、たぶんシリンダー削ればイケんじゃね?」って言うんです。

いくらだって聞いたら500って言うからまぁエンジン焼き付いて500なら安いもんかなって3日後ぐらいに受け取りに行ったらシャリシャリが直ってて「とりあえずこれで様子見ろ」って言うからサンキューってカネ払って、んで100㎞ぐらい走ったらまたシャリシャリ言い出すんですよ。バイク屋にUターンです。

で、バイク屋戻ったら「やっぱダメだった?」「やっぱエンジン載せ替えなきゃダメぽいかも」って言うんです。いくらだって聞いたら1500…って「だったら最初からエンジン載せ替え提案しとけよ」って話なんですけど英語でなんて言えばいいか分からんし後の祭りじゃないですか。払いましたよ1500。

中古で買った3000ドルのバイクに500ドルと1500ドルの修理代合わせたら5000ドル。最初に新車買っとけばよかったじゃんって無茶苦茶後悔しましたね。でもしょうがないです。今更他のバイク買えないし足がなくなったら帰国するしかないんだから。まぁなんかモヤモヤ抱えたまま修理してもらいました。

で、1週間ぐらいで修理終わったらエンジン絶好調なんですよ。載せ替えたから当たり前なんですけどね。でも合わせて2000も取られたから全財産が300切っちゃったんですよ。異国の地でしかも砂漠の真ん中の地方都市で300ドルは相当ヤバいです。速攻でアリスのハローワークみたいなとこ行きましたね。

でもアリスは仕事あんまりないんですよ。オーストラリアではカネなくなったら農場でフルーツピッキングっていう収穫のバイトやるのが鉄板なんすけどアリスは砂漠の真ん中だから農場自体が少なくて。メロンとかスイカの農場があるにはあるんですけどちょうど時期が終わったばかりでないんです。

で、職員の人に相談したらアデレードまで下ればメルボルンの方から流れてるマレーリバーってデカい川があってその川沿いにずーっと農場が続いててちょうど今から収穫の時期だからそこ行けば仕事あるはずだよって教えられたんです。速攻でアリスのキャラバンパーク引き払って南に下りましたね。

まあ、実際はアデレードまで行く必要もなくてアデレードの手前で左に折れてマレー川の方目指すんですけどそれでもアリスから1000㎞以上あるからガソリン代やら食費やらキャンプ場代やらで農場のありそうな街に着いたときは持ち金が200を切ってたんです。でもまあ運よく農場の仕事が見つかりましてね。

えんどう豆の農場なんですけど1日60ドルほどで1週間ぐらい働けたからそこそこ動ける程度には財布が膨らみました。でもその街は収穫の時期が終わったみたいで他のバイトが見つかんないから東に移動して今度はアプリコットの農場で2週間ぐらいで働かせてもらって、その次はオレンジ、次はトマトって…。

アプリコット農場のボスの妹さんがすごく可愛くてですね。ギリシャ移民の3世って言ってました。デートに誘いたかったけど英語でどう誘えばわかんなくて諦めました。まぁ日本でも女の子誘えないから言葉は関係ないんですけどね。もう50ぐらいだと思うけど子どもに囲まれて幸せに暮らしてると思います。

そんな感じでマレーリバー沿いの街を東に移動しながら3か月ぐらい働いて3000ドルほど貯金できてようやく旅を続ける目途が付いたんです。農場にはいろんな人がいました。自分みたいな外国人の旅行者も多いんですけど現地の人もたくさん働いてて、アジア人は少ないけどベトナムの人はたまに見ましたね。

ベトナムの人には同じアジア人だからかわからんけど親切にしてもらいました。弁当のおかずを分けてもらったりとか。当時はベトナム戦争から20年経ったぐらいで傷痍軍人みたいな人も結構いましてね。オレンジの農場で働いたときはそこのボスの頭が半分ぐらい陥没しててすごい驚いたのを覚えてます。

寝泊りはもちろんキャラバンパークです。どんな小さな街でも必ず一か所はあって当時は一泊4~6ドルで泊まれたんです。キャンプ場って日本ではレジャーでしか使わないけど現地は定住してる人も多いんです。定住はトレーラハウスとかキャビンを使う人が多いんですけどテントで生活する人も結構いました。

季節労働者が多いですね。農場の収穫に合わせて街を移動したり道路工事で働いてたり。テントで生活しながら自然公園のレンジャーで働いてる人なんかもいましたよ。あとは僕みたいな外国からの旅行者とか。旅行者はスイス人が多かったですね。ドイツ語を話す人はほとんどドイツ系スイス人でした。

で、農場で働いてるとそういうキャラッパに1週間とか2週間とか連泊するもんだから他の定住してる現地の人にロックオンされちゃうこともあるんです。「あそこに変なアジア人が住んでるぜっ」て。そしたらある晩、タトゥーだらけのいかついおっさんに「お前ちょっとこっちこい」って呼ばれたんですね。

呼ばれたら無視もできないんでトレーラーハウスまでついてったら「まぁそこに座ってテレビでも観ろよ」ってビール渡されて「お前どっからきた」とか「どこで働いてんだ」とか1時間ぐらい話してビール2本飲み終わった頃に「明日朝早いから」って言われてサンキューって僕も戻って寝ようとしたんです。

でも何もお返ししないのも気が引けたから誰かに渡そうと日本から持ってってた漆塗りの箸と箸入れを自分のテントから持ってきてビールのお礼に渡したんですよ。そしたら「こんな綺麗なチョップスティックくれるのか」ってすごい喜んでくれて、ボロボロ涙を流し出して泣き出しちゃったんですね。

泣くほど高級品でもないから「なんで箸ぐらいで泣くの?」って聞いたら「俺はベトナムに行ってたんだ」って言いながら銃口を僕の方に向けてライフル撃つ真似をして引き金を引いて「子どもを連れてって撃ち殺したんだ」って話し出したんです。もちろん彼が言うベトナムはベトナム戦争のベトナムです。

ある村に入った時に子供を何人か裏に連れてって撃ち殺したそうなんですね。その時の子の顔が忘れられないって。それが上官の命令だったのか、自分で率先してそうしたのか、他にも人に言えないようなことをしたのかそれはわかりません。でもその光景がずっと頭から離れないって声出して泣いてるんです。

「お前はベトナム人じゃないけど同じアジア人だから罪滅ぼしになるかと思って声かけてビールおごったんだ」って泣いてるんですよ。殺した子が生きてたらちょうど僕ぐらいの年頃になってんじゃないかって面影を重ねたんでしょうね。それでアジア人が使う箸を握りしめながら鼻水たらして泣いてるんです。

どうしていいか分かんなくて「戦争だからしょうがないよ」とか「上官の命令には逆らえないよ」とか、戦争の事なんて何も知らん若造のくせに分かった風な当たり障りのない答えで慰めてたら「ありがとう」「お前は優しいな」って。たぶん彼は戦争が終わってからずっとそうして苦しんできたんでしょうね。

結婚も遠ざけて、道路工事の非正規労働で働いて仕事が終わったらトレーラーハウスでビール飲みながらテレビ見て、また次の日働いてビール飲んでテレビ見て。テレビの画面にはバラエティー番組が流れてたけど、彼はずっと虐殺してきた子どもたちの顔をテレビの中に観てたんじゃないかって思うんです。

もちろん一番苦しいのは虐殺された側の人たちで、虐殺した兵士に同情する余地はないし上官の命令だったとしても命の覚悟さえあれば従わない選択もできたんだから言い訳できない犯罪行為です。でも虐殺した側の兵士もたぶん死ぬまでその罪の意識に苛まれて生きていくのを強いられるんだと思うんですよ。

で、その苦しみを少しでも軽くしてくれるのが虐殺の事実を人に話して懺悔することだと思うんです。もちろんその懺悔は自分の悔恨の負担を軽くするための利己的なものなのかも知れないけど、虐殺してしまった過ちを告白して懺悔することは二度とそうした虐殺を起こさないために必要なことだと思います。

虐殺された人たちも、自分を殺した兵士たちが虐殺した事実を心の中に閉じ込めたまま苦しみ続けてただ死んでいくよりも、虐殺の事実を公表して広く世間に伝えることで、二度と同じような虐殺が起きないような世界になってくれることを望むはずだと思うんです。

で、このツイートで何を言いたいかって言うと、最近は南京虐殺を否定する意見を聞くことが多くなりましたが上海事変から南京攻略戦に続く一連の過程で甚大な数の略奪や強姦や虐殺が起きたことは中国側の証言だけでなく、その事実を認める日本側の元兵士による証言も多数収集されてるんですよね。

じゃあなぜその元兵士たちが自ら虐殺の事実を証言したのかってことを考えて欲しいんです。虐殺したとか強姦したとか何十年も経って証言しなくたって沈黙を守っていれば元兵士として称えられて天寿を全うできるのに、わざわざ戦争犯罪となる虐殺やレイプを告白したことの重さを考えて欲しいんです。

自分が関わった南京での虐殺を証言した元兵士たちも、そのベトナムで子どもたちを虐殺した元兵士のようにずっと苦しみ続けて生きてきたんだと思うんです。でもそれを黙して墓に持って行くんじゃなくて、後ろ指を指されることも覚悟して自分が犯した蛮行を自らの口で告白した重みを感じてほしいんです。

昨今は南京虐殺を否定する論者を多く目にしますが、そうした意見の拡散は虐殺された被害者の苦しみを「なかったもの」にするだけでなく、その虐殺した元兵士が苛まれてきた苦しみも「なかったもの」にしてしまいます。しかしそれは、その人たちの人生を「なかったもの」にしてしまうということです。

それは倫理的に許されるのでしょうか。先日も、南京関連の書籍を読んでもないのに「読んだ」と言い張る人が「虐殺に関わった元兵士の証言は目撃証言だから信用できない」などとトンデモ論で絡んできましたが、自分が虐殺したから虐殺したと証言した元兵士がそれを聞いたらどう思うでしょうか。

虐殺の過ちを自ら語る元兵士の証言を、ネットに転がる情報だけで「嘘だ」と決めつけて拡散する行為は、虐殺された人だけでなく虐殺した元兵士の苦しみをもこの世界から抹殺してしまう行為です。それはその人たちの命を抹殺するということであって、それも「虐殺」の一つと言えるのではないでしょうか。

ウクライナで起きている戦争では徐々に虐殺の疑惑が報道されていますが、過去に虐殺した元兵士が自ら語る証言を「嘘だ」として消してしまうなら、今起きている虐殺もいずれこの世界から消されてしまうでしょう。そうして虐殺を繰り返すことに与するのか、一人でも多くの人に考えて欲しいと思うのです。

※この記事は2022年4月10日の夕方に連投でツイートものがなぜかツイッター社から警告を受けて表示されなかったため、誤字脱字を一部修正したうえで再掲載したものです。

追記

なお、南京虐殺に関して元兵士がどのような心境の下で証言したかのかという点は、元兵士がインタビューで語った記録が残されていますので、最後にその言葉をいくつか紹介して追記しておきましょう。

南京攻略戦に参加した第十六師団第二十連隊の元隊員が、1987年7月に陣中資料を公開した際に記者会見や戦友に語った談話ですが、元兵士は次のように語っています。

「私は思うんやが……」「こんど戦争が起きると、南京事件のようなことが……地球上の全体に広がりよると思います。核爆弾が何万発も爆発すれば、どんな国に住んでおろうが、わしら年寄りから孫の代まで助かる者はほとんどおらん。戦争は、どんなにむごたらしいもンか。若い人に……私の話を聞いてもらえればと思います」

※元第十六師団衛生隊員U氏(下里正樹著『隠された聯隊史』157頁より引用)

「けど君も見たやろ……姑娘クーニャンを○○○したやろ……皇軍やいうたかて、残虐なことをしてきた。軍が政治を壟断した結果、軍人がおごりたかぶって、したい放題をやってきた。南京事件の真実をきちんと後世に伝えな、あかん。二度と南京をくりかえしたらあかん。わしはこう思うんやが、きみはどうや……」

※旧軍批判につながる告白を危惧する戦友との元第十六師団第二十連隊H上等兵の電話での会話(下里正樹著『隠された聯隊史』158頁より引用)※当サイト筆者注-「○○○」の部分は引用元の書籍にはレイプを意味する言葉が記載されていますが、当サイト筆者の都合で伏字にしています。